独りの正教徒が感じたこと

迷える子羊達へ

私の知っているイエス・キリスト(⑤死と復活:(5)イエスの受難)

何も悪い事をしていない、それどころか多くの人を救済してきたイエス・キリストが犯罪者と共に処刑されました。それも、宗教指導者と群衆によって裁かれて処刑されたと言ってよいと言えます。刑の執行権限を持つポンテオ·ピラトは、死刑にする罪を認めることができなかったので、大衆の前で水に手をつけて、この刑の執行について自分は責任を持たないと言いました。
個人の命を脅かす者や社会を脅かす集団に対して、個人や社会を守ろうとする力が働きます。
エス集団は、ユダヤ教社会を脅かす宗教集団であるとみなされていて、イエスの説教の中にもユダヤ教に批判的なものがいくつもありました。
一般に、反社会的集団は、オウム真理教と同じように、教祖と主要な弟子達をまとめて捉えて処罰するのが常です。
エスの弟子であったイスカリオテのユダの明確な裏切り行為と「私は神の独り子であり、死んで三日目に復活する」と公言したイエスの存在が、イエスのみを処罰(処刑)するという必然性を現実にもたらしたと解釈できます。
すなわち、ユダヤ教社会の人すべてが、イエスが「私は神の独り子であり、死んで三日目に復活する」と言ったことを知っていたことになります。
その上でこの処刑を実行したと解釈できます。

エスが死んで三日目に、悲しみに包まれたマグダラのマリア達が墓に行き、墓穴が空っぽであったこと、天使に告げられたこと、そして、復活したイエス・キリストマグダラのマリアの前に現れたことを使徒達に伝えました。
使徒たちは、悲嘆に暮れる女達を慰めるつもりでいたはずです。喜びに満ち、子供のように喜んでいる女達を見て、信じられない気持ちと神の独り子イエスに対する罪の意識に満たされたのではないでしょうか。
神の独り子イエス・キリストに対する処刑は残忍極まりないものがありました。
ユダヤ教社会は、「神の独り子」であると公言したことを取り消すように、再三、イエスに求めていて、弟子達が心配そうに眺めていた経緯があったと推測できると思います。(使徒達はこの事について全く触れていませんが、私にはこの事についての衝突がなかったとは思えません)
使徒たちの死を恐れない行動(勇気)は、イエス・キリストに対する信仰のみだったのでしょうか?
目の前で多くの癒しや奇蹟を行った善意の固まりのような人間が「神の独り子である」と公言したことを信じることができなかったことに対する罪の意識がなかったと言えるでしょうか?
私は「イエス・キリストを神の独り子であると信じ、生命(霊)の復活を信じること」と「死を恐れないこと」とは別問題であると思います。
私は、死を恐れない使徒達の行動に戸惑いを覚えます。
「神の独り子」(イエス・キリスト)を死に引き渡したのは私達であることを心に留めておき、一連の不幸な出来事が起きた原因は、以下のように思っています。
「他人を裁く力(罪)を人は持っていて、この力を人の《強さ》であると信じている愚かさそのものが死に至る行為であることを、イエス・キリストが身をもって教えている。」

以上