独りの正教徒が感じたこと

迷える子羊達へ

私の知っているイエス・キリスト(前説:その4)

前回、最後の晩餐について述べましたが、肝心なキリストの体としての「パンと葡萄酒をいただくこと(領聖)」について説明していませんでした。
キリスト教では、「悔い改め(痛悔)」と「パンと葡萄酒をいただくこと(領聖)」はセットになっています。
では、何故、ミサ(聖体礼儀)で、このセットが毎回行われるのかについて、私なりの思いを述べます。

江戸時代、石川五右衛門という極悪非道な大泥棒が釜ゆでの刑にされた時、自分は息絶えてしまっても、ぐらぐら煮えたぎるお湯にわが子を浸けなように頑張ったという逸話(石川五右衛門も人の子だったとか)があります。

この世の思いはかりごとや価値観のすべてが、「どうしようもないくらいに、ぐらぐら煮えたぎっているお湯」であり、その中から引き上げるための神様のルールが、「悔い改め(痛悔)」と「パンと葡萄酒をいただくこと(領聖)」のセットであると私は思います。
極悪非道な犯罪者やその子供であろうがなかろうが関係ないのです。キリストを信じる人はすべて、このルールでのみ救済されるとイエス・キリストは言っています。
キリストと生きることは、現実逃避ではなく、この世を過ぎ越すことだと思います。
この世を過ぎ越すパートナーとしてのイエス・キリストの位置づけは重要であり、その過ぎ越す重要な方法の一つが「悔い改め(痛悔)」と「パンと葡萄酒をいただくこと(領聖)」のセットであると私は思っています。
以上