独りの正教徒が感じたこと

迷える子羊達へ

私の知っているイエス・キリスト(②悔い改め(痛悔))

「悔い改め(痛悔)」は、自分の周りの世界からイエス・キリストに向き直る行為であると私は思います。
小さな子供が母親に泣いてごめんなさいをしている姿を一度は見たことが、誰もあると思います。
それは、母親との心の距離を広げたくない(そばで見守って欲しい)思いや、わだかまりを作りたくない(水に流して欲しい)思いなどによるものだと思います。
母親は、良いことと悪いことの区別をつけさせるため、悪いことは絶対に許しません。きちんと叱り、その後で「赦す」(これ以上とがめることを放棄する)ことをします。
「悔い改め(痛悔)」は、自分自身の罪を意識することによってキリストの「赦し」を乞う行為です。
キリストを愛し、絶対的存在としてキリストを認識していないと、「悔い改め(痛悔)」という行為はできないと思います。
私は、自分本位の思いや行為が自分自身を汚していることを認識することが「罪を意識する」ということだと思っていて、それらすべてを清算(過去のすべてに決着をつける)するために、キリストに向かって「悔い改め(痛悔)」を行っていると思っています。
また、自分の愚かさ、いい加減さ、そして、欲求まみれの汚なさを痛感(実感)でき、自分自身を修正する機会として捉えることもできます。

今回はうまく言えたとは決して思っていません。
それは、私にとって「悔い改め(痛悔)」は非常に難しく、「悔い改め(痛悔)」の具体的な内容が、いつも悩みの種になっているからです。
以上