独りの正教徒が感じたこと

迷える子羊達へ

私の知っているイエス・キリスト(マリア論前説:その①)

聖書に記載されている「マリア」は二人いて、キリストの母である「聖母マリア(生神女マリア)」と「マグダラのマリア」です。
聖母マリア(生神女マリア)」については、多くの方が知っていて、私個人の認識は一般の常識とそんなに違っていないと思います。
しかし、「マグダラのマリア」については、いろんな人がいろいろ言っていて、「とんでもない」ような内容を目にすることがしばしばあります。
まず、「マグダラのマリア」について言っておきたいことがあり、以下に述べます。
マグダラのマリア」は、イエス・キリストによって7つの悪霊をとり除かれた女性で、イエス・キリストの最期(死に際)に立ち会った女性(女弟子?)であると福音書に記載されています。
7つの悪霊とは、高慢、貪欲、嫉妬、情欲、大食(過食)、怒り(憎しみ)、怠惰といった人間の汚れた目に見えない持ち物(トラブルや不幸な出来事の原因になる欲求)です。
マグダラのマリア」を、聖書内の女性にまつわる出来事(娼婦やキリストを激愛する激情女)と一つにまとめてしまった教会(昔のカトリック教会)やイエスの妻(寵愛を受けた者)とする宗教集団があります。
エスの十字架刑を遠くから見守り、イエスの埋葬された墓に他の女達と一緒に香油を持って行った女性を想像すると、大きな違和感を感じます。
違和感を感じる理由を述べます。(私の聖書解釈です)
①姦淫の現場を押さえられ、多くの人の前に引きずり出された娼婦が石打ちの刑にあおうとしている修羅場に、丁度、イエス・キリストが出くわした時の逸話です。イエスは、いたたまれない思いで女を見据え、そして、大きく目をみ開き、周りの男達に「罪のないものから石を投げよ!」と言いました。男達は、イエスの迫力ある真剣な態度に躊躇せざるおえなかった訳です。男達は去っていき、憐れみ深いイエスは悲しい思いで、女に「私もあなたを裁かない。さっさと立ち去りなさい!」と言いました。それでこの逸話は終わっています。立ち去った女が改心したとは一言も言っていません。「他人を罰する」ことの意味を考えろと言っているだけだと思います。
②パリサイ人シモンは、イエスを気に入らないラビ(ユダヤ教の僧)であると日頃から思っていました。シモンがイエスを自分の家に引き入れ(招待したのではない)、一緒に食事をしてみた時の逸話です。シモンがイエスに対して敵意を抱いた態度で冷遇したこと(イエスの足を洗う段取りもせず、放ったらかしにしたこと)に激昂した女性が、イエスの足に涙を流し、自分の髪で拭った後に頭に塗る香油を足に塗ったと解釈しています。イエスは、シモンに対して「多くを赦されたものは多く愛され、少ない赦しは愛されることも少ない」と言い、女に対して「あなたの罪は赦された」と言いました。自分を高く評価している者は、イエス・キリストの赦しにあずかることが難しいと言っているだけだと思います。
③最後の晩餐の絵の中にイエスにくっついて離れない「マグダラのマリア」が描かれた絵があったり、聖書外伝で「マグダラのマリアは、イエスの特別の寵愛を受けていた」との記述があったりして、「マグダラのマリア」がイエスの内縁の妻であると言っている人達がいます。イエスは天国では男も女も同じであると言っているし、「マグダラのマリア」はイエスの十字架刑を他の女達と一緒に遠くから眺めていたという記述があります。イエスと「マグダラのマリア」との間に男女関係はなかったと思います。ただ、他の弟子たちと比べ物にならないくらい積極的にイエスに付き添う強い気持ちを「マグダラのマリア」は持っていたのではないでしょうか。
私は、復活したイエス・キリストが最初に現れたのが、「マグダラのマリア」(母である「聖母マリア(生神女マリア)」でない)の前だという事実は、最後までイエスに寄り添う気持ちを貫いた人間が「マグダラのマリア」であったからだと思っています。
以上