独りの正教徒が感じたこと

迷える子羊達へ

私の知っているイエス・キリスト(マリア論前説:その②)

前回、「マグダラのマリア」について述べましたが、私は世間の想像(元娼婦とかイエスに対して男女関係を求めた人とか)とは違い、非常に知的で強い意志をもった思慮深い女性で、イエスの姉のような存在だったと思います。常にイエスを守り抜くような姉弟愛とイエスに対する敬愛の気持ちを持っていた女性だと思います。
イエス・キリスト復活後の「マグダラのマリア」の行動から、やり手のキャリアウーマンのような行動力と他の使徒達に負けないくらい強い意志を持った女使徒のような存在に私には見えます。

エスは刑場(ゴルゴダの丘)にて、母「マリア」に”婦人よ、彼があなたの息子です!”と言い、弟子のヨハネに”見なさい、あなたの母です!”と言いました。イエスは刑場(ゴルゴダの丘)にて、親子関係を断つような言葉を「マリア」に投げかけていますが、自分はもう息子として愛情を受けることも、母
を守り抜くこともできないから、自分の代わりをヨハネに託したと判断できると思います。
このことから、イエスの母「マリア」は、これまでイエス集団とは距離をおいていて、刑場(ゴルゴダの丘)にてイエス集団に加わったと思われます。
エス集団に加わったイエスの母「マリア」が、わが子「イエス」が復活したキリストであることを理解するには、「マグダラのマリア」の存在が不可欠(必要条件)であったのではないでしょうか。
もしそうなら、イエス・キリストは、母「マリア」のために、「マグダラのマリア」を必要としたのではないでしょうか?
母「マリア」に「マグダラのマリア」の説明を通して、息子イエスがキリストであることと同時に今までの出来事の意味をわかって欲しかったのではないでしょうか?
また、母「マリア」の戸惑いや絶望を取り除きたかったのではないでしょうか?

エスは、本当は、とても母「マリア」を愛していたのではないでしょうか?

私は間違っていますか?

以上