独りの正教徒が感じたこと

迷える子羊達へ

私の知っているイエス・キリスト(前説:その3)

悔い改め(痛悔)とパン&葡萄酒(領聖)の説明の前に、どうしても言っておきたいことがあるので、それを述べます。

数年前、私は埼玉のとある町に住んでいて、毎日都心まで満員電車に揺られて通勤をしていました。
ある日曜日、隣の駅で人身事故があり、しばらく電車が止まりました。日曜日の朝、お母さんと買物に出た中学生が、母親の目の前で電車に飛び込んで亡くなったという痛ましい出来事が起きました。
お母さんはどんな思いだったのか、想像を絶するものがあり、私自身、強い絶望を感じた経験があります。

ここで問題にしたいのは、イエスは、最後の晩餐にて、弟子たちに「死んで三日目に復活する」ことを述べました。それは、イエスが、進んで死を受け入れる態度を弟子たちに示したことに他なりません。
多くの弟子たちから愛されていたイエスが、自ら死を選んだことに、戸惑う弟子たちの姿が最後の晩餐で描かれていると思います。
エス集団の会計係である優等生でもあるイスカリオテのユダは、絶望感をいだき、先生のつまずきを正そうとして、イエスと対峙する展開を選び、最期は首を吊って自害してしまったと私は、解釈しています。
イスカリオテのユダは、この世の中にイエスの活動をどんどん広めて行き、多くの人がイエスを尊敬するようになる世界を目指していたのではないでしょうか。
イスカリオテのユダが裏切り者」であることの意味は、「死んで三日目に復活すると宣言したキリストを信じない愚か者」で、かつ、「キリストを台無しにしたとんでもない弟子」であると言っている様に私には思えます。
しかし、2000年前のユダヤ教の社会において、イスカリオテのユダはとんでもない人間ではないように私には思えてなりません。
「死を選択する者」の罪の重さをイスカリオテのユダは十分認識していた厳格な人だったのではないでしょうか。
最後の晩餐は、「生命(霊)とは何か」についてのキリストの明確な意思表示であると私は思っていて、最後の晩餐におけるキリストのこの意思表示を無視したイスカリオテのユダの行為こそが最大の問題であり、自分ファーストの優等生の独善的行為に見えます。
言いたいことは、「生命の重さ」や「生命の尊さ」について、軽く考えていた人は、イエス集団の中に誰一人いなかったということです。
また、私もイスカリオテのユダと同じ様に、「生命」を自分ファーストに考える傾向にある残念な人間です。最後の晩餐の場に私がいたら、絶望感と恐怖感しか感じなかったのではないかと思うことがあります。
このことは、あらかじめ言っておきたかったことです。
以上