独りの正教徒が感じたこと

迷える子羊達へ

私の知っているイエス・キリスト(⑤死と復活:(6)生命(霊)の存在)

エスは、現実逃避のために死に向かって行ったのではありません。
エスは私達の罪を背負って死に、そして復活するためにユダヤ社会と対峙したのであり、イエス・キリストの死と復活は、生命(霊)の死を滅ぼし、永遠の生命(霊)の誕生を現していると思います。
その事が、イエス・キリストの福音とか、イエス・キリストが生命(霊)そのものであるとか言われる理由だと思います。
ラザロの蘇りは、死んでいた者が息をふき返しただけで、ラザロが寿命を伸ばす事に成功した出来事にすぎません。
日々、神の独り子イエス・キリストに祈ることは、私達が、死に向かうのではなく、永遠の生命(霊)に向かうことを意識する行為であると思います。

『敵を愛せ』とか『自分を迫害している者のために祈れ』というイエス・キリストの教えに反しているようにも思えますが、率直に言って、私は、永遠の生命(霊)の存在を確信することで、私自信が、自分や自分が愛する人々、そして、自分を愛してくれている人々を裏切らない自分を維持していると感じます。
親からの虐待による幼児の死亡事件がよく報道されますが、そんな時に「小さな生命の終わった出来事」として片付けてしまうのではなく、「イエス・キリストの救い(生命(霊)の復活)に預かりますように」と祈ることができます(見捨てない自分を取り繕うことができます)。

この世界には、理不尽なことや絶望的なことが多く散在しています。
キリスト教では、人は死ぬのではなく「永眠」し、イエス・キリストの再臨によって永遠の生命(霊)の復活を得る(人は死なない)という教えを信じています。
私は、永遠の生命(霊)の存在を信して生きる方向性(生き方)は、人が生きていく上で大事なことであると思います。

以上