独りの正教徒が感じたこと

迷える子羊達へ

私の知っているイエス・キリスト(⑤死と復活:(2+α)「主の祈り」のつけ足し)

神の独り子イエス・キリストの贈り物である「主の祈り」の内容について、個人的に言いたいことがあるので、つけ足します。

「主の祈り」の中で次のフレーズが大切であり、受けとめ方がいろいろあると思っています。

『わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください』
(正教会では、『我らに負い目ある者を赦すがごとく、我らの負い目を赦したまえ』)

「私達に負債のあるもの」とは、私達に暴力をふるった者や金銭等を借りて返さない者など迷惑をかけた者達を指すと思ってしまうと、そのような不幸な事に巻き込まれたことのない人(特に年少者)には、詭弁でしかありません。
私は親しい間柄の人間に対して、お互いが満足できるつき合いを維持できず、いつも負い目を感じています。お互いが期待に答えられず、それが負い目になって残っていき、苦しい思いに陥ってしまいます。特に、相手が不幸にも亡くなられた時は、大変後悔します。
「私達に負債のあるもの」とは、負い目を感じてしまっている方たちと考えるべきだと思います。

だから、次のような解釈はできないでしょうか。

「私達に負い目を感じている方たちを私達自身で赦したように、主に対する私達の負い目を赦してください」

なぜ、このようなことが言いたいかというと、このフレーズを口ずさむ時、同時に「私が負い目を感じている方たち、どうか私の負い目を赦してください」と思ってしまっているからです。
(周りの人達に対して私が抱いている負い目も赦されますようにと思ってしまう)

問題は、この祈りの前に、私達が互いに負い目を赦しあっておくことが前提になっているからだと思います。

私の場合、現実において、このフレーズが一番難しく感じられます。

以上