独りの正教徒が感じたこと

迷える子羊達へ

私の知っているイエス・キリスト(⑤死と復活:(1)イエスが泣いた出来事)

ラザロ(正教会ではラザリ)が死後4日目にイエス・キリストによって生き返った逸話です。(以下の記述は、私の解釈(思い)です)

ユダヤ人であるマルタとマリアの兄弟ラザロがイエスがいない間に病気で死んでしまいました。3人共にイエスを主と信じる信仰を持った者達で、イエスもこの3人を愛していました。
マルタとマリアの姉妹は、各々、イエスに対して『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と後悔の気持ちを口にしました。

それは、イエスが愛している姉妹(マルタとマリア)が、主イエスに向かい、次のような告白をしたと私は解釈します。
「死は誰も避けることのできないもので、主イエスと私達との関係は、生きている時の一時的な関係に過ぎないことは残念です。兄弟ラザロは、もっと長く生きて、主イエスと一緒に過ごしたかった。主イエスがラザロのそばにいたら、奇蹟を信じて1日でも長く生きていられたと信じています。主イエスを愛していた兄弟ラザロは、死んで主イエスとの関係が終わってしまったことは、兄弟を失った悲しみ以上に悲しく、主イエスを愛する集団から、愛する兄弟がいなくなってしまったことが残念で仕方ありません。私達も死ぬまであなたを信じます。」

エスは、姉妹のこの告白を聞いて泣きました。
エスは、涙が止まりませんでした。

エスの涙は、愛する兄弟姉妹が『死』に支配されていて、『死』を絶対的·絶望的に私達を分離し消滅させるものとして覚悟していることに対する憤りと絶望から来ていると私は解釈します。

だから、イエスは、この姉妹や周りの人すべてに聞こえるように、『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか』と言い、彼らが石を取りのけた後、イエスは目を上げて、『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。』と言われました。
エスは、愛する兄弟姉妹に、自分(キリスト)の存在について、改めて考え直して欲しいと言われたと私は解釈します。

そして、墓穴に向かって、大声で叫びました。『ラザロよ、出てきなさい。』
すると死んだはずのラザロが生き還り、墓穴から出てきました。

姉妹(マルタとマリア)やイエスを信じる集団にとっては、信じられない出来事でした。盲目の人がイエスに癒されて視力を取り戻したレベルとはまったく次元の異なる奇蹟で、宗教(ユダヤ教)の根幹を揺るがす出来事で、大問題に発展していきました。
それでなくても命を狙われているイエスにとって、この奇蹟は決定的な意味を持っていました。
なぜなら、イエスが命に関わる奇蹟を行ったことが、既存の宗教に危機感を与えたことは容易に想像できることです。

この奇蹟が、イエスの処刑(公開鞭打ち、茨の冠(ユダの王)、つばや罵倒を含む)の要因としてカウントされたと解釈できるとすれば、この奇蹟は現実に起きた出来事であると判断できると思います。

エスの涙やラザロの死からの蘇生の奇蹟は、すべて、愛する兄弟姉妹に対する神の独り子の愛の形であり、主イエスとの関係が、死を超越して永久·不滅·絶対的な関係であることを直接示したものではないでしょうか?

この出来事は、イエスに対する警戒心や反感を助長しただけで終わってしまい、その後の主イエス・キリストの宣教を難しくしたのではないでしょうか。

すなわち、イエスが生命(霊)の復活についていろいろ述べている例え話が、イエスの神に対する宗教的な解釈に留まっていないとユダヤ教の指導者達に判断されてしまったのではないでしょうか?

私は間違っていますか?

以上