独りの正教徒が感じたこと

迷える子羊達へ

私の知っているイエス・キリスト(⑤死と復活:(3)天国とイコン)

イエス・キリストには12人の弟子がいて、その弟子達が中心となって福音を述べ伝えました。
その弟子(聖使徒)の1人であるルカという人は、「ルカによる福音書」や「使徒行伝」を編集しました。
聖使徒ルカは、医者で絵を描くのが得意であったそうで、正教会では、以下のイコン(ウラジミールの生神女(聖母))は、聖使徒ルカが描いた作品であると言われています。
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このイコンを見ると、生神女マリアが、慈愛(大切に思う愛情)とわが子(キリスト)の受難に対する憐れみと忍耐に満ちた厳しい表情をしています。
イコンの中に描かれている人は、元々の人物を原像とした「写し」であり、その「写し」を通して神の国(天国)を描いたものです。
キリスト教徒がイコンを必要とするのは、現実の世界で、イコンの中の人物(写し)の原像を想うことで神の国(天国)を実際に認知し、イエス・キリストへの信仰を再認識するためです。
ですから、キリスト教徒は、イコンに向かうことで、誰でも神の国(天国)を実際に体感し祈ることができるのです。

私は、私達がイエス・キリストの死と復活に向き合い、これを実際に認知するには、イコンが必要だと思っています。

以上

私の知っているイエス・キリスト(⑤死と復活:(2+α)「主の祈り」のつけ足し)

神の独り子イエス・キリストの贈り物である「主の祈り」の内容について、個人的に言いたいことがあるので、つけ足します。

「主の祈り」の中で次のフレーズが大切であり、受けとめ方がいろいろあると思っています。

『わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください』
(正教会では、『我らに負い目ある者を赦すがごとく、我らの負い目を赦したまえ』)

「私達に負債のあるもの」とは、私達に暴力をふるった者や金銭等を借りて返さない者など迷惑をかけた者達を指すと思ってしまうと、そのような不幸な事に巻き込まれたことのない人(特に年少者)には、詭弁でしかありません。
私は親しい間柄の人間に対して、お互いが満足できるつき合いを維持できず、いつも負い目を感じています。お互いが期待に答えられず、それが負い目になって残っていき、苦しい思いに陥ってしまいます。特に、相手が不幸にも亡くなられた時は、大変後悔します。
「私達に負債のあるもの」とは、負い目を感じてしまっている方たちと考えるべきだと思います。

だから、次のような解釈はできないでしょうか。

「私達に負い目を感じている方たちを私達自身で赦したように、主に対する私達の負い目を赦してください」

なぜ、このようなことが言いたいかというと、このフレーズを口ずさむ時、同時に「私が負い目を感じている方たち、どうか私の負い目を赦してください」と思ってしまっているからです。
(周りの人達に対して私が抱いている負い目も赦されますようにと思ってしまう)

問題は、この祈りの前に、私達が互いに負い目を赦しあっておくことが前提になっているからだと思います。

私の場合、現実において、このフレーズが一番難しく感じられます。

以上

私の知っているイエス・キリスト(⑤死と復活:(2)イエスの教え「主の祈り」)

イエス・キリストは、イエスを信仰する人々に、神に祈る言葉を教えました。
その祈りのおもな内容は、この世において、主イエスを中心とし、そして、主のご加護を受けた平和な生活が送れますように願うこと、主イエスに罪の赦しを求めること、そして、神を賛美することの3点です。
「死んで三日目に復活する」と公言していたイエスが、日々の生活の中で祈る言葉として教えた言葉の中に「死からの復活を願う」祈りの言葉は一切ありません。
エスは、人々に、滅びない生命(霊)の存在を示して希望を与えたましたが、「復活する生命(霊)」を求めよとは一言も言っていません。
三日目に復活したイエス・キリストは、「信じる者は、ことごとくすべて聖なり」(主イエスを神の独り子であると信じて罪の赦しを求めるものは、ことごとく生命(霊)の復活に預かります)と言っています。
すなわち、イエスの教えた祈りの内容は、「復活する生命(霊)」を得る必要十分条件であり、この祈りを日々行う人達は、主イエスによってことごとく生命(霊)の復活に預かると解釈できると思います。
「私を信じるものは、死んでも生きる」と主イエスは、はっきり言っています。

「主の祈り」の言葉は、天国の門の扉をたたくために神の独り子イエスが私達に与えた贈り物だと思います。

「死と復活」を考える時、キリスト教徒にとって最も大切にしなければならない言葉(祈り)は、この神からの贈り物です。

以上

私の知っているイエス・キリスト(⑤死と復活:(1)イエスが泣いた出来事)

ラザロ(正教会ではラザリ)が死後4日目にイエス・キリストによって生き返った逸話です。(以下の記述は、私の解釈(思い)です)

ユダヤ人であるマルタとマリアの兄弟ラザロがイエスがいない間に病気で死んでしまいました。3人共にイエスを主と信じる信仰を持った者達で、イエスもこの3人を愛していました。
マルタとマリアの姉妹は、各々、イエスに対して『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と後悔の気持ちを口にしました。

それは、イエスが愛している姉妹(マルタとマリア)が、主イエスに向かい、次のような告白をしたと私は解釈します。
「死は誰も避けることのできないもので、主イエスと私達との関係は、生きている時の一時的な関係に過ぎないことは残念です。兄弟ラザロは、もっと長く生きて、主イエスと一緒に過ごしたかった。主イエスがラザロのそばにいたら、奇蹟を信じて1日でも長く生きていられたと信じています。主イエスを愛していた兄弟ラザロは、死んで主イエスとの関係が終わってしまったことは、兄弟を失った悲しみ以上に悲しく、主イエスを愛する集団から、愛する兄弟がいなくなってしまったことが残念で仕方ありません。私達も死ぬまであなたを信じます。」

エスは、姉妹のこの告白を聞いて泣きました。
エスは、涙が止まりませんでした。

エスの涙は、愛する兄弟姉妹が『死』に支配されていて、『死』を絶対的·絶望的に私達を分離し消滅させるものとして覚悟していることに対する憤りと絶望から来ていると私は解釈します。

だから、イエスは、この姉妹や周りの人すべてに聞こえるように、『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか』と言い、彼らが石を取りのけた後、イエスは目を上げて、『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。』と言われました。
エスは、愛する兄弟姉妹に、自分(キリスト)の存在について、改めて考え直して欲しいと言われたと私は解釈します。

そして、墓穴に向かって、大声で叫びました。『ラザロよ、出てきなさい。』
すると死んだはずのラザロが生き還り、墓穴から出てきました。

姉妹(マルタとマリア)やイエスを信じる集団にとっては、信じられない出来事でした。盲目の人がイエスに癒されて視力を取り戻したレベルとはまったく次元の異なる奇蹟で、宗教(ユダヤ教)の根幹を揺るがす出来事で、大問題に発展していきました。
それでなくても命を狙われているイエスにとって、この奇蹟は決定的な意味を持っていました。
なぜなら、イエスが命に関わる奇蹟を行ったことが、既存の宗教に危機感を与えたことは容易に想像できることです。

この奇蹟が、イエスの処刑(公開鞭打ち、茨の冠(ユダの王)、つばや罵倒を含む)の要因としてカウントされたと解釈できるとすれば、この奇蹟は現実に起きた出来事であると判断できると思います。

エスの涙やラザロの死からの蘇生の奇蹟は、すべて、愛する兄弟姉妹に対する神の独り子の愛の形であり、主イエスとの関係が、死を超越して永久·不滅·絶対的な関係であることを直接示したものではないでしょうか?

この出来事は、イエスに対する警戒心や反感を助長しただけで終わってしまい、その後の主イエス・キリストの宣教を難しくしたのではないでしょうか。

すなわち、イエスが生命(霊)の復活についていろいろ述べている例え話が、イエスの神に対する宗教的な解釈に留まっていないとユダヤ教の指導者達に判断されてしまったのではないでしょうか?

私は間違っていますか?

以上

私の知っているイエス・キリスト(④マリア論)

最初に「マリア論」の基本的な考え方を説明します。(あくまで私の理解していることです)

私は日本ハリストス正教会の信徒で、数年前にロシアのイコン画家に描いて頂いたイコンを記載します。(著作権正教会にあります)

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このイコンの表現形態は、聖母子像を描いたもので典型的なものです。
このイコンは、神·聖霊(聖神)の働きにより、神の独り子が人の性質を与えられ、処女マリアより産まれたことを信仰の対象(神の慈愛の形)として表現しています。
これは、神·聖霊(聖神)の祝福を受けた生神女マリア(神の母(セオトコス))が信仰の対象になっているからです。

「マリア論」は、基本的に二元論であり、上記の「生神女マリア」以外にもう一つあり、それは「新しいエバ」(正教会では「永貞童女マリア」と呼ぶ)です。

旧約聖書エバは、意図的にアダム(人間)を神から遠ざけ、アダムとエバは、神から不従順な者達として罪(楽園から追放され死ぬものとなった)を背負った。

新約聖書エバ(神·聖霊(聖神)から祝福された女)は、神の独り子であるキリストの母「マリア」であった。
彼女は、神と人間との中保者として一生を捧げ、死ぬまで神に従順であった。
このことに基づき、キリストの母「マリア」を「永貞童女マリア」と呼び、聖人として扱っています。

そして、新しいエバである「マリア」の子イエス・キリストは、十字架にて「古いアダム」(人間)の罪を贖い、死を討ち破って復活し、天に昇った。そして、イエス・キリストを信じる人は、人間の姿で地上に現れた神の独り子イエス·キリストを、「古いアダム」(人間)を『死』(罪)から開放した「新しいアダム」(人間)として解釈できると信じています。

上記の2点をまとめたものが、「マリア論」(二元論)です。

以上

私の知っているイエス・キリスト(マリア論前説:その②)

前回、「マグダラのマリア」について述べましたが、私は世間の想像(元娼婦とかイエスに対して男女関係を求めた人とか)とは違い、非常に知的で強い意志をもった思慮深い女性で、イエスの姉のような存在だったと思います。常にイエスを守り抜くような姉弟愛とイエスに対する敬愛の気持ちを持っていた女性だと思います。
イエス・キリスト復活後の「マグダラのマリア」の行動から、やり手のキャリアウーマンのような行動力と他の使徒達に負けないくらい強い意志を持った女使徒のような存在に私には見えます。

エスは刑場(ゴルゴダの丘)にて、母「マリア」に”婦人よ、彼があなたの息子です!”と言い、弟子のヨハネに”見なさい、あなたの母です!”と言いました。イエスは刑場(ゴルゴダの丘)にて、親子関係を断つような言葉を「マリア」に投げかけていますが、自分はもう息子として愛情を受けることも、母
を守り抜くこともできないから、自分の代わりをヨハネに託したと判断できると思います。
このことから、イエスの母「マリア」は、これまでイエス集団とは距離をおいていて、刑場(ゴルゴダの丘)にてイエス集団に加わったと思われます。
エス集団に加わったイエスの母「マリア」が、わが子「イエス」が復活したキリストであることを理解するには、「マグダラのマリア」の存在が不可欠(必要条件)であったのではないでしょうか。
もしそうなら、イエス・キリストは、母「マリア」のために、「マグダラのマリア」を必要としたのではないでしょうか?
母「マリア」に「マグダラのマリア」の説明を通して、息子イエスがキリストであることと同時に今までの出来事の意味をわかって欲しかったのではないでしょうか?
また、母「マリア」の戸惑いや絶望を取り除きたかったのではないでしょうか?

エスは、本当は、とても母「マリア」を愛していたのではないでしょうか?

私は間違っていますか?

以上

私の知っているイエス・キリスト(マリア論前説:その①)

聖書に記載されている「マリア」は二人いて、キリストの母である「聖母マリア(生神女マリア)」と「マグダラのマリア」です。
聖母マリア(生神女マリア)」については、多くの方が知っていて、私個人の認識は一般の常識とそんなに違っていないと思います。
しかし、「マグダラのマリア」については、いろんな人がいろいろ言っていて、「とんでもない」ような内容を目にすることがしばしばあります。
まず、「マグダラのマリア」について言っておきたいことがあり、以下に述べます。
マグダラのマリア」は、イエス・キリストによって7つの悪霊をとり除かれた女性で、イエス・キリストの最期(死に際)に立ち会った女性(女弟子?)であると福音書に記載されています。
7つの悪霊とは、高慢、貪欲、嫉妬、情欲、大食(過食)、怒り(憎しみ)、怠惰といった人間の汚れた目に見えない持ち物(トラブルや不幸な出来事の原因になる欲求)です。
マグダラのマリア」を、聖書内の女性にまつわる出来事(娼婦やキリストを激愛する激情女)と一つにまとめてしまった教会(昔のカトリック教会)やイエスの妻(寵愛を受けた者)とする宗教集団があります。
エスの十字架刑を遠くから見守り、イエスの埋葬された墓に他の女達と一緒に香油を持って行った女性を想像すると、大きな違和感を感じます。
違和感を感じる理由を述べます。(私の聖書解釈です)
①姦淫の現場を押さえられ、多くの人の前に引きずり出された娼婦が石打ちの刑にあおうとしている修羅場に、丁度、イエス・キリストが出くわした時の逸話です。イエスは、いたたまれない思いで女を見据え、そして、大きく目をみ開き、周りの男達に「罪のないものから石を投げよ!」と言いました。男達は、イエスの迫力ある真剣な態度に躊躇せざるおえなかった訳です。男達は去っていき、憐れみ深いイエスは悲しい思いで、女に「私もあなたを裁かない。さっさと立ち去りなさい!」と言いました。それでこの逸話は終わっています。立ち去った女が改心したとは一言も言っていません。「他人を罰する」ことの意味を考えろと言っているだけだと思います。
②パリサイ人シモンは、イエスを気に入らないラビ(ユダヤ教の僧)であると日頃から思っていました。シモンがイエスを自分の家に引き入れ(招待したのではない)、一緒に食事をしてみた時の逸話です。シモンがイエスに対して敵意を抱いた態度で冷遇したこと(イエスの足を洗う段取りもせず、放ったらかしにしたこと)に激昂した女性が、イエスの足に涙を流し、自分の髪で拭った後に頭に塗る香油を足に塗ったと解釈しています。イエスは、シモンに対して「多くを赦されたものは多く愛され、少ない赦しは愛されることも少ない」と言い、女に対して「あなたの罪は赦された」と言いました。自分を高く評価している者は、イエス・キリストの赦しにあずかることが難しいと言っているだけだと思います。
③最後の晩餐の絵の中にイエスにくっついて離れない「マグダラのマリア」が描かれた絵があったり、聖書外伝で「マグダラのマリアは、イエスの特別の寵愛を受けていた」との記述があったりして、「マグダラのマリア」がイエスの内縁の妻であると言っている人達がいます。イエスは天国では男も女も同じであると言っているし、「マグダラのマリア」はイエスの十字架刑を他の女達と一緒に遠くから眺めていたという記述があります。イエスと「マグダラのマリア」との間に男女関係はなかったと思います。ただ、他の弟子たちと比べ物にならないくらい積極的にイエスに付き添う強い気持ちを「マグダラのマリア」は持っていたのではないでしょうか。
私は、復活したイエス・キリストが最初に現れたのが、「マグダラのマリア」(母である「聖母マリア(生神女マリア)」でない)の前だという事実は、最後までイエスに寄り添う気持ちを貫いた人間が「マグダラのマリア」であったからだと思っています。
以上