独りの正教徒が感じたこと

迷える子羊達へ

人と社会と国との関係について(3-2)

米国について
この4年間、トランプ大統領が政治を行った結果、評価できるものがあったでしょうか。
誰もが理解できる分かりやすい政治をバイデン大統領に期待したいと思います。
特に朝鮮半島問題については、トランプ大統領のスタンドプレーと文大統領の強烈な反日·共産主義容認政策により、政治的に朝鮮半島が孤立してしまいました。(文大統領自身は、自国の政治的主体性を確保したと思っているのではないでしょうか)
私個人が、バイデン大統領に期待したいのは、もう一度原点に帰り、共産主義の排除が、東アジアの平和や朝鮮民族の統一に不可欠であるという認識をベースに朝鮮半島政策を強力に推し進めることです。
この数十年間、現在に至るまで、国連軍やG7の軍隊が、北朝鮮を監視している状態です。
私は、共産主義国家を排除する方法でしか、北朝鮮の子供たちの未来を確保することはできない状況にあると認識しています。
しかし、今の文政権は、米国の勝利やG7の勝利と最も遠いかけ離れた存在になっていて、米国の東アジア戦略の無力化こそが、韓国のアジアにおける政治的·軍事的な力の拡大につながると思っているように見えます。その延長線上に南北統一を夢見ていると解釈しています。
トランプ大統領の無責任な一方的な政治手法が、文政権の強行策を是認する世相を作ってきましたが、今後は国家間の協調をベースにして北朝鮮政策を行う必要があると思います。
韓国の北朝鮮政策について、文政権はバイデン大統領に理解させる自信はあるのでしょうか?

今後は、過去のアジア政策の延長線上に米国のアジア政策を戻して行くべきだと思います。

何らかの形で米国が朝鮮半島問題に決着をつけることを期待します。

以上

人と社会と国との関係を考える(1-2)

韓国について
昨年の投稿(2019/9/8)から1年が過ぎました。
1年前と今とで何が変わったでしょうか?
今、新型コロナウイルス感染症アメリカ大統領選挙が社会の大きな関心事になっています。
韓国では、反日政策を具体化させ、朴大統領等、過去の大統領の多くを汚職容疑で刑務所に入れました。
韓国政府は、将来成功する政府として韓国国民に認知されているといえるでしょうか?
韓国と北朝鮮の和平や統一への動きは前進したでしょうか?
韓国は、中国、米国とうまくやっていると評価できるでしょうか?
日本の首相が交代し、米国の大統領が交代しました。
韓国の大統領は、他の人と交代できるでしょうか?
北朝鮮や中国に近い独裁国家のように見えないでしょうか?
韓国政府は、民主主義国家として北朝鮮と対峙しよとしているでしょうか?

最も疑問に思うことは、以下のことです。

韓国の子供たちの未来は確保できたでしょうか?
文大統領は、北朝鮮の子供たちを前にして、「君たちの未来は私が守る」と胸を張っていうことができる状況を作れると思っているでしょうか?

朝鮮半島問題とは何ですか?
反日政策によって自分達の正しさをいくら主張しても、北朝鮮の本質的な問題は解決できない(解決しない)ことに気づくべきではないでしょうか?
反日政策の延長に社会主義共産主義による南北統一を夢見るのであれば、不幸な歴史の1ページを刻む結果になると私は思います。
文大統領自身、南北統一の正しい方向性を自覚しているようには私には思えません。
韓国国民が惑わされ振り回されて不幸な現実に至らないことを願います。
以上

若い女子プロレスラーの自殺について

1人の女の子(享年22才)が自殺した事件について述べます。
テラスハウス」という番組(フジテレビ)に出演し、怒りを爆発させた女子プロレスラーにネット(SNS)の中傷が集中し、彼女は自殺に追い込まれました。
この番組は、男女3人をシェアハウスに住まわせ、恋愛を前提にしたリアルショーで、何か問題が起これば、コメンテーター達が面白おかしく批判する番組でした。
私は、彼女が自殺後にこの番組のいくつかを見て、率直に気付いた点を挙げます。
①6人は、全員、友人ではなく、お互いを見て良い点と悪い点のあら探しに集中していると思いました。それを番組の編集者やコメンテーターが見る人達が面白く感じるようにデフォルメしたものであると思いました。
②出演者は、皆ストレスをためていき、女子プロレスラーの女の子に「じゃあ、お前はどうなんだよ?」と言うようなトラップ(罠)を仕掛けたように見え、彼女が一連の出来事の中に悪意のある善意を感じて、「なめんな、コノヤロー」と激怒したと思います。(それまでみんなとあまりうまくいっていなかった)
③他の出演者が彼女を裁いた。特に男の子たちは、あまり良い印象をもってなく、「お前は、その程度の残念などうしようもない人間だということを自覚しろ!」と言っているように見えました。
コロナウイルスでいつプロレスの試合ができるか、お客さんが今まで通り入ってくれるか分からない状態で、ネットの批判をすべて彼女が飲み込んでしまい、自殺しました。背負っているものが大き過ぎたと感じたのでしょうか?
⑤番組編集者、他の出演者、コメンテーター、番組を見た者達が、すべて彼女を裁いた。現実世界は、プロレスとは違うぞと言わんばかりに!

イエス・キリストの逸話に、以下のような記載があります。

姦通の現場を抑えられた女が大衆にさらされ、石打の刑にあう修羅場に、イエスが出くわした。
エスは、いたたまれない思いで彼女のそばに寄り添い、地面に何かを描いた。人々の注目は、女から地面に注意が移り、怒りが少しおさまった。そして、女のそばにしゃがんですわっていた男(イエス)が、いたたまれない思いを胸に、立ち上がって言った。「みんなの中で罪をおかしたことのないものから、この女に石を投げつけ、傷を負わせよ!」
正義感に酔っていた男達は、その場から1人、2人と去っていき、誰もいなくなった。
エスが来なければ、集まった人々は正義感から、女の顔に大きな石を投げつけ、女が顔から大量の血を流すのを見て、「お前は、その程度の残念などうしようもない人間だということを自覚しろ!」と叫んだのだろうか。

善悪を問題にしているのではない。
彼女を死に追いやったすべての関係者に言いたい。

「お前は、その程度の残念などうしようもない人間だということを自覚しろ!」

イエス・キリストの逸話は、人を裁くなということを言ってるので、善悪の区別を曖昧にすることでは決してありません。

「人を裁くな」の意味は、「神の独り子イエス・キリストが、すべての人を愛を持って救済します」と言うことと同じです。

今回、非常に残念な思いをしたので書きました。

以上

私の知っているイエス・キリスト(⑥死と復活:(7)生命(霊)の印)

私は、過去に津和野(島根県の山奥)に行ったことがあります。
そこに乙女峠という場所(光淋寺)があり、幕末にキリシタンの迫害(拷問)が行われ、36名のキリスト教徒が殉教しました。そして、拷問にあっていた者の中に聖母マリアを見たと言うものがあり、マリア聖堂がそこに建てられました。
拷問にあったキリスト教徒は、長崎(浦上)から連れて来られた人達でした。
幕末は、尊皇攘夷派と幕府軍が猛烈なせめぎ合いをしていた時期で、社会や人々が大きな危機感を持っていた時代であったと思います。
その中で、キリシタン迫害が徐々に酷くなっていったと思われます。
キリスト教の歴史は、キリスト教徒の殉教の歴史でもあります。キリスト教では、殉教した人達を「聖人」として扱っています。彼らは、歴史の中に「生命(霊)の印」を刻んできた人達で、キリスト教徒にとって精神的に頼れる存在として認識できると思います。
キリスト教徒でない人から見ると、大変辛い気の毒な出来事でしかないと思います。
イエス・キリストの教えている「生命(霊)」を学ぶことができる私達は、自分達の過ちがどういう種類の過ちであるかを実感できるのではないでしょうか?
キリスト教植民地主義の根拠として利用したヨーロッパやアメリカなどの白人至上主義者達にも問題があると私は思いますが。
イエス・キリストを信じることが難しい人には、イエス・キリストの教えている「生命(霊)」が、人類のプライドであると思うだけでも十分尊いと私は思います。
以上

私の知っているイエス・キリスト(⑤死と復活:(6)生命(霊)の存在)

エスは、現実逃避のために死に向かって行ったのではありません。
エスは私達の罪を背負って死に、そして復活するためにユダヤ社会と対峙したのであり、イエス・キリストの死と復活は、生命(霊)の死を滅ぼし、永遠の生命(霊)の誕生を現していると思います。
その事が、イエス・キリストの福音とか、イエス・キリストが生命(霊)そのものであるとか言われる理由だと思います。
ラザロの蘇りは、死んでいた者が息をふき返しただけで、ラザロが寿命を伸ばす事に成功した出来事にすぎません。
日々、神の独り子イエス・キリストに祈ることは、私達が、死に向かうのではなく、永遠の生命(霊)に向かうことを意識する行為であると思います。

『敵を愛せ』とか『自分を迫害している者のために祈れ』というイエス・キリストの教えに反しているようにも思えますが、率直に言って、私は、永遠の生命(霊)の存在を確信することで、私自信が、自分や自分が愛する人々、そして、自分を愛してくれている人々を裏切らない自分を維持していると感じます。
親からの虐待による幼児の死亡事件がよく報道されますが、そんな時に「小さな生命の終わった出来事」として片付けてしまうのではなく、「イエス・キリストの救い(生命(霊)の復活)に預かりますように」と祈ることができます(見捨てない自分を取り繕うことができます)。

この世界には、理不尽なことや絶望的なことが多く散在しています。
キリスト教では、人は死ぬのではなく「永眠」し、イエス・キリストの再臨によって永遠の生命(霊)の復活を得る(人は死なない)という教えを信じています。
私は、永遠の生命(霊)の存在を信して生きる方向性(生き方)は、人が生きていく上で大事なことであると思います。

以上

私の知っているイエス・キリスト(⑤死と復活:(5)イエスの受難)

何も悪い事をしていない、それどころか多くの人を救済してきたイエス・キリストが犯罪者と共に処刑されました。それも、宗教指導者と群衆によって裁かれて処刑されたと言ってよいと言えます。刑の執行権限を持つポンテオ·ピラトは、死刑にする罪を認めることができなかったので、大衆の前で水に手をつけて、この刑の執行について自分は責任を持たないと言いました。
個人の命を脅かす者や社会を脅かす集団に対して、個人や社会を守ろうとする力が働きます。
エス集団は、ユダヤ教社会を脅かす宗教集団であるとみなされていて、イエスの説教の中にもユダヤ教に批判的なものがいくつもありました。
一般に、反社会的集団は、オウム真理教と同じように、教祖と主要な弟子達をまとめて捉えて処罰するのが常です。
エスの弟子であったイスカリオテのユダの明確な裏切り行為と「私は神の独り子であり、死んで三日目に復活する」と公言したイエスの存在が、イエスのみを処罰(処刑)するという必然性を現実にもたらしたと解釈できます。
すなわち、ユダヤ教社会の人すべてが、イエスが「私は神の独り子であり、死んで三日目に復活する」と言ったことを知っていたことになります。
その上でこの処刑を実行したと解釈できます。

エスが死んで三日目に、悲しみに包まれたマグダラのマリア達が墓に行き、墓穴が空っぽであったこと、天使に告げられたこと、そして、復活したイエス・キリストマグダラのマリアの前に現れたことを使徒達に伝えました。
使徒たちは、悲嘆に暮れる女達を慰めるつもりでいたはずです。喜びに満ち、子供のように喜んでいる女達を見て、信じられない気持ちと神の独り子イエスに対する罪の意識に満たされたのではないでしょうか。
神の独り子イエス・キリストに対する処刑は残忍極まりないものがありました。
ユダヤ教社会は、「神の独り子」であると公言したことを取り消すように、再三、イエスに求めていて、弟子達が心配そうに眺めていた経緯があったと推測できると思います。(使徒達はこの事について全く触れていませんが、私にはこの事についての衝突がなかったとは思えません)
使徒たちの死を恐れない行動(勇気)は、イエス・キリストに対する信仰のみだったのでしょうか?
目の前で多くの癒しや奇蹟を行った善意の固まりのような人間が「神の独り子である」と公言したことを信じることができなかったことに対する罪の意識がなかったと言えるでしょうか?
私は「イエス・キリストを神の独り子であると信じ、生命(霊)の復活を信じること」と「死を恐れないこと」とは別問題であると思います。
私は、死を恐れない使徒達の行動に戸惑いを覚えます。
「神の独り子」(イエス・キリスト)を死に引き渡したのは私達であることを心に留めておき、一連の不幸な出来事が起きた原因は、以下のように思っています。
「他人を裁く力(罪)を人は持っていて、この力を人の《強さ》であると信じている愚かさそのものが死に至る行為であることを、イエス・キリストが身をもって教えている。」

以上

私の知っているイエス・キリスト(⑤死と復活:(4)記憶の聖パン)

正教会には、聖パン記憶といって「生存者」(生きているがミサ(聖体礼儀)に来れなかった信者)と「永眠者」(亡くなられてミサ(聖体礼儀)に来れなかった信者)を対象に、主イエス・キリストと神の慈憐による救い(生存者にとっては生命(霊)の癒し、永眠者にとっては生命(霊)の安息)を受けるようにミサ(聖体礼儀)に来た信者が取り計らう方法があります。

聖パン記憶について説明します。

まず最初に「生存者」と「永眠者」の二種類の用紙のどちら、または、両方に「聖名と氏名」のリストを書き、ミサ(聖体礼儀)の最初に神父に提出しておきます。
ミサ(聖体礼儀)にて神父がイエス・キリストの記憶にあずかるサクラメントを行って用紙ごとに記憶の聖パンを用意し、信者がミサ(聖体礼儀)の終わりに用紙と聖パンのペアを受け取って家に持ち帰ります。
食事の前に「主の祈り」を暗唱した後に用紙に書かれた方たちを思って聖パンを食べます。
聖パン記憶は、信者同士の相互補完のためですが、一般の信者さん達は、自分の家族や親戚をイエス・キリストに記憶して頂く手段として使用しています。また、用紙には、自分の聖名を通して信者でない自分の家族や親戚を記入することもできるので、信者でない自分の家族を思いやることができます。
(信者であろうがなかろうが、自分の家族のために祈ることができます)

すなわち、聖パン記憶によって、永眠された方を含む他の人達(信者、神父、自分の家族)が、主(イエス・キリスト)·神の慈憐を受けられるように(イエス・キリストに記憶されるように)祈ることができます。

私は、この方法で、信者でない方たち(自分の家族や先祖)もイエス・キリストの救いに預かることができると信じています。

「信じる者は救われる」(信者はイエス・キリストによって生命(霊)が救われる)ことは確かですが、それだけで済む話ではないと私は思っています。

以上